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福井塾

合格に至る確かな歩みへと導く

合格への確かな道を歩んでいますか

性格が各人各様異なるように、生徒の学力についても各人各様の特性があります。

数学が抜群にできる生徒もいれば、英語は抜群にできるのに数学はからっきし伸びない生徒もいます。

中間期末等の定期試験は非常によくできるのに模擬試験だと思うように点が取れないという生徒、センター試験だと満点近く取れるのに2次試験だとまるで手が出ないという生徒、こうした生徒にもよく出会います。

それとは逆に模擬試験、記述試験を非常に得意とするのにセンター試験でつまづく生徒もいます。

中学までは非常に優秀であったのに、高校生になってからは一生懸命勉強をしているのにも関わらず成績が伸びないといった悩みを抱えている生徒もいます。

以上に挙げたのは生徒の学力の特性の僅かな例に過ぎません。生徒の学力の特性はまさに百人百様と言えるのです。

「努力は才能に勝る」という言葉があります。私が以前勤務していた予備校の自習室に掲げられていた言葉です。

しかし私は、真剣に必死に努力を続けているのに一向に成績が上がらず悩んでいる浪人生を少なからず知っています。そうした生徒に対して、「あきらめずに努力を続けていればやがてはきっと結果となって現れる日が来るから」といった励ましとも慰めともつかない言葉を投げかける保護者や教師の声もよく耳にします。そうした声は生徒に対する心からのいたわりを持った優しい気持から発せられたものでしょうが、その優しい言葉だけでは生徒の悩みを一向に解決しないという現実もこれまで多く見てきました。さらに言えば、そうした言葉がかえって生徒の悩みを深くし、いっそう事態を悪化させている場合も少なからずあるのです。生徒はいっそう悩みを深くする心の中でこう自問しているに違いありません。

「これまで以上の努力をこのまま続けてさえいれば、結果となって現れる日は本当にやってくるのだろうか?」

苦しさに耐えて努力を続ける生徒と、それを温かく見守り励ましや慰めの言葉を時に投げかける身近な人々。

こうした構図は一見微笑ましくもあり、それによって非常に成績の伸びる生徒が多数いるのも事実ですが、いっそう悩みを深くして結果の出せない生徒も多数いるのです。

こうした違いはいったいどこからくるのでしょうか?生徒の性格の違いも一つの要素とはなるでしょうが、こうした事態が生じる原因としてより大きな要素と思われるのは、成績の伸び悩んでいる生徒たちが正しい努力、すなわち学力が身に付く学習といった努力ができていないことです。

努力しているのに伸び悩んでいる生徒たちは、成績が伸びない学力のつかない間違った苦しい努力を日々続けている場合が多いのです。合格へと至る確かな歩みができていないのです。

こうした場合には、慈愛に満ちた励ましの言葉以上に、学力の身に付く正しい学習方法を指導することの方が遥かに生徒の悩みを解消するのに役立つことでしょう。どうすれば成績が上がるのか分らぬまま苦しい努力を続けている生徒に対してさらに同様の努力を促す言葉は、どんなに愛情あふれたものであっても生徒の悩みを一層深くします。

体の健康にとっては、正しい生活習慣に加えて異常部位の早期発見が、高価な薬や大手術にもまさり大切であります。

では、学力の健康、成績の伸びる学力作りにとっては、何が大切なのでしょうか?

体の健康になぞらえて言えば、「正しい学習習慣」「学力の伸びを妨げる異常原因の早期発見」と言えるかも知れません。

学力の伸びを妨げる異常原因を早期に発見して、その異常原因を取り除き、正しい学習習慣へと生徒を導く必要があります。

学力の伸びを妨げる異常原因とは何なのかは、生徒の学力の特性同様まさに百人百様といえます。

異常原因の発見はそれほど難しいことではないのですが、困難を極めるのはその異常原因の取り除きです。学年が進むにつれ治療はよりいっそう困難になります。学力の健康にとっても早期発見、早期治療が最も効果的といえます。

「学力の伸びを妨げる異常原因」となっているものは、生徒のこれまでの長年の学習方法に根付いたものだからです。

間違った学習方法や学習習慣によって形成された思考回路、頭の働かせ方を正しい方向に修正することは、生徒が長年にわたって身につけたものだけに想像以上に難しいのです。

出会った生徒達のこと

実際に出会った生徒のケースをご紹介しましょう。

(1)A君

私大医学部志望。

高3のときから毎年複数の私大医学部を受験し、そしてすべて不合格という経験を繰り返している多浪生。

当時の私は医学部に通いながら予備校で数学講師のアルバイトをしていましたが、そのときの生徒です。

彼が3浪のときの1年間だけ数学の授業を担当していました。3浪の受験にもすべて失敗した直後の3月初め頃、深刻な顔をして彼が相談にやってきました。

「先生、これ以上いくら浪人を続けても合格する自信がありません。特に数学はこの3年間必死になってやってきましたが、いくら勉強しても入試のときに問題が解けません。これ以上浪人しても問題が解けるようになると思えないのです。どうしたら入試問題が解けるようになるのでしょうか。浪人を始めたころは、2,3年一生懸命に勉強すれば必ずできるようになると親や先生方からもそう言われて励まされたので、僕もそれを信じてこの3年間は自分でも本当に頑張ってきました。でも今では、いくら努力しても数学ができるようになる自信がないのです、合格する自信がないのです。僕の何が駄目なのでしょうか、勉強方法がいけないのでしょうか、僕はいくら努力しても数学ができるようにならない人間なのでしょうか、一生懸命勉強すれば必ずできるようになると言った親や先生方の言葉を信じた自分が間違いだったのでしょうか。」

彼とは授業で接するだけでこれまでに数学の質問を受けたこともなかったのですが、このときはひどく深刻ですがるような表情で意を決したように私に話しかけてきたのです。

非常に素直で真面目、勉強も真面目にコツコツとしている生徒というのが私の授業での彼の印象でした。

彼の家は病院で、親は何浪しても構わないから合格するまで受験を続ければいいといった方針。

親としては、高校生活と同じ年数の3年間を予備校で受験勉強させればどうにか合格はできるだろうと思っていた様子。

話をしてみると彼は印象通りのいたって素直で真面目な生徒でした。素直な彼には親の考えが浸透していて3浪までは当然と考えていたようです。親の期待に応えたい気持ちは3浪に失敗した今でも変わらないのですが、浪人を始めたころとは違って今では親の期待に応える自信がまったくないのです。

浪人を始めたころには、親や担任の先生が言った通りに「3年ほど予備校に通って努力すればなんとか合格するだろう、苦手な数学もできるようになるだろう」と彼自身もそう思って何の不安もなく勉強していたのです。

なんという彼の素直さでしょう。素直であるというのは本当にすばらしい彼の長所であることに間違いないのですが。

しかし、「人からのアドバイスに素直に耳を傾け、ひたむきに努力する人間は必ず成功する」という言葉が真実であるには、そのアドバイスが的確で正しい場合に限ります。アドバイスが不適切で間違っていたらどうでしょう。素直さやひたむきさといった大いなる長所は、その長所を持つ人をいっそう成功から遠ざけてしまうことでしょう。

私は彼から、現在の数学の勉強方法をはじめ、高校時代、中学時代、そして小学生の時の勉強について話を聞きました。

そして、何年もの努力にもかかわらず彼の数学力が一向に伸びない原因が分りました。

彼は数学の勉強方法が間違っていたのです。それは彼が小学生のとき、家庭教師から与えられたというアドバイス、指導を何の疑いもなく驚くべき素直さで受け入れたときにまでさかのぼります。

彼は小学生の時から算数が苦手だったようです。そうした彼の算数の成績を上げるべく家庭教師がつけられた次第ですが、その家庭教師が彼に言った言葉はこうです。

「君は算数ができないのだから考えても時間が無駄に過ぎるだけです。算数の問題は考えてはいけません、すぐに答えを見て丸暗記しなさい。」

この恐るべき算数勉強法の指導は、A君の大いなる素直さによって即座に受け入れられ、それは結果としてA君の算数のテストの得点をたちまちにしてしかも大幅にアップさせたのでした。両親は喜びA君は大いにほめられたそうです。

この「不幸な成功体験」以来、彼は成績の上がる算数の勉強方法を確立したのでした。

「考えても自分は解けないのだから時間の無駄。時間は限られているのだから、無駄はいけない、無駄なことはやめよう。答えをそのまま丸暗記すること、それが成績アップの最善の方法。」

彼が小学生の時に確立したこの恐るべき「必勝の算数勉強法」は、「必勝の数学勉強法」として受け継がれ中学、高校、そして浪人の3年間に至るまでの10年以上の長きに渡って途絶えることなく守り続けられたのです。

私は彼のクラスでの授業の際に、「わからない問題でも考えること、自分なりに考え抜くこと、これが数学の学力アップの最善の方法である」と何度も言っていましたが、私のアドバイスは彼の驚くべき素直さをもってしても受け入れてはもらえなかったようです。

「わからない問題を考えるのは時間の無駄、それはいけないこと」と教えられ10年以上も算数・数学の問題を自ら解こうとしなかった彼にしてみれば、「わからない問題でも考える」ということがどういうことなのか理解不能でもあったに違いありません。

浪人3年目が失敗に終わりすっかり自信を喪失している彼を目の当たりにすると、恐るべき「必勝の算数勉強法」を伝授した家庭教師への憤りも感じましたが、「人からのアドバイスに素直に耳を傾ける」という彼の大いなる長所が「人からのアドバイスを自らは何も考えずに受け入れる」という彼の大いなる愚かさにも思えてくるのでした。

実際、彼の「必勝の数学勉強法」は、中学時代においても彼にまずまずの数学の得点を与え、高校時代の定期試験においてもまったく理解できていない数学において赤点となるのを防ぐという「不幸な効き目」を発揮していたのですが、高校での模擬試験においては成績アップに何の効き目も発揮しなくなっていました。

しかし、彼は、「必勝の数学勉強法」を捨てることをしませんでした、捨てようとは1度も考えたことがなかったといいます。彼には「必勝の数学勉強法」以外に数学を学ぶべき方法は知らされてなかったのです。

このとき彼は「必勝の数学勉強法」が何の役にも立たないことを自ら気付くべきでした。

何の効果も発揮しなくなった「必勝の数学勉強法」に対して、その方法が本当にいいのかどうかを自ら考え直してみなくてはいけなかったのです。

それでも、彼がそうした事態になっても何の疑問も持たずに「必勝の数学勉強法」を守り続けたことは、彼の素直さというよりも彼の愚かさと呼ぶべきでしょう。

高校の模擬試験において破綻したかに見える彼の「必勝の数学勉強法」は、実は小学生のときに既に破綻していたのです。高得点が取れた算数のテストでも、実は何も理解できていない、何も身についていないことを彼自身知っていたからです。しかしテストでの高得点という目に見える結果は親を非常に喜ばせていたので、親からほめられるから頑張ろうという彼のけなげさが「必勝の数学勉強法」の不毛さに勝っていました。

小学生の彼に必要だったものは、算数の成績のお手軽な成績アップといった「不幸な成功体験」ではなく、自ら考え自らの力で算数の問題が解ける喜びを知るという「幸福な成功体験」でなくてはならなかったと私は考えるのです。

こうした「幸福な成功体験」を味わった生徒は、答えを教えられることを嫌がります。答えが知らされる前にまずは自分の力で解いてみたいと思うからです。

しかし、時すでに遅し、です。小学生のときには戻れません。

それではA君は何をすべきでしょうか?数学の勉強方法を根本的に変えるしか、彼の数学力アップは望めそうにありません。しかし余りにも長きにわたって守り続けられた恐るべき「必勝の数学勉強法」から彼が抜け出すのは容易なことではないのです。まずはA君の意識変革から始めなくてはならないでしょう。

「わからない問題でも考えること、自分なりに考え抜くこと、これが数学の学力アップの最善の方法である」と私は生徒達にアドバイスしたと述べましたが、実はこのアドバイスが実行できる生徒は既に相当の数学力が身に付いているといえます。数学の苦手な生徒にこのアドバイスをすることは、A君が言うように「時間が無駄なだけ」のアドバイスとして生徒からは支持されないでしょう。

「わからない問題でも考えること」「時間の無駄」にならない為には、高校数学の各分野において基本的事項の理解とそれに伴う知識を身に付けておく必要があります。「考えること」が可能となるにはそれに必要な土台がなくてはなりません。考えるための土台がなければそもそも「自らの力で考えること」など不可能で、時間の無駄となってしまうことでしょう。

それでは、「いくら努力しても数学ができるようにならない。簡単な問題は解けても入試問題はさっぱり解けない。」といったA君の悩みはどうすれば解決できるでしょうか?

私はA君に「数学各分野の基本事項は理解できているかどうか、覚えるべき公式は覚えているのかどうか、理解できていない項目はないのか」と確認してみました。

「はい、それは大丈夫だと思います。高校の時まったく分からなかった箇所も浪人してからよく分かるようになりました。何度も何度もやったので基本的な問題は解けますし、公式も全部覚えています。」

A君はゆっくりとした口調で、これまで自分がやってきたことを確認するように答えました。A君の口調は実に控えめでしたが、彼の一言一言に静かな自信とでもいうべきものを私は感じました。

  A君の言ったことに嘘はないでしょう。彼は高校のときからもさぼってきたわけではないのです。浪人してからの3年間も真面目にコツコツと勉強を続けてきたに違いないのです。計6年間にも及ぶ努力にもかかわらず、A君は志望する大学の入試問題が解けず合格という目標を果たせないでいるのです。

A君が無事目標を達成するには、A君はどうすればよいと皆さんは思いますか?

控えめながらも静かな自信を含んだA君の言葉を聞いた皆さんは、「A君はあの恐るべき『必勝の数学勉強法』によって長年自ら考えることができていない、それでも考えるための基本事項、すなわち数学的土台については高校以来の努力の結果身に付いているのだから、あとはその土台をもとに考える力を養成すればよい。しかし、考える力を養成するといってもそれが難しい、さてどうしたものか。」と思っておられるかも知れません。

「A君は高校以来のコツコツとした勉強の積み重ねで、ようやく入試問題に向かうスタートラインに立つことができた。それは言ってみれば、彫刻をするのに必要な彫刻刀は遅きに失したがようやくすべてそろったということだ。平刀、丸刀、三角刀、それに切り出し刀までようやくすべての彫刻刀の用意ができた、あとはその使い方を習得するだけだ。A君はなにも見事な芸術作品を彫刻するわけではないのだから、彫刻刀の使い方さえマスターできればいいはずだ。」と考えられているかも知れません。

A君の言葉に嘘はないと私は思いましたが、しかし私には、A君が自らも準備はできていると控えめながらも静かな自信とともに語る数学的土台が、高校時代は不十分でしたが今ではすべて揃っていますといって並べて見せる彫刻刀のすべてが、蛍光灯の光の下で白く静かな光を放っているようにはとても思えなかったのです。

あるものは錆つき、あるものは歯がこぼれてしまって、とても使い物になるとは思えなかったのです。まずやるべきは、錆つき歯こぼれした彫刻刀の1本1本を研ぎ澄ますことから始めるのでなければ、どんなに彫刻刀の使い方を習得しようとしてもそれは到底かなわぬことに思えました。

A君とは週に2、3度の授業で会うだけで授業でのやり取りを通して接するだけでしたが、そのとき私が垣間見たのは、錆つき歯こぼれしたA君の彫刻刀でした。私はそのたびごとに、錆ついた彫刻刀の砥ぎ方をさりげなくアドバイスしましたが、A君にはその意味が理解不可能であったでしょうし、そもそもA君は彼の「必勝の数学勉強法」以外いっさい耳を傾けるつもりもなかったのです。

彼が長年をかけて用意した彫刻刀の一本一本は、それらすべてがあの「必勝の数学勉強法」という砥石によって磨かれていたのでした。その砥石は、磨けば磨くほど磨いたものを錆びさせてしまうという恐るべき効果をもった「偽物の砥石」でした。今では偽物の砥石を持つA君の手は、すっかりと偽物の砥石に馴染んでいるようでした。

その偽物の砥石に換えて、磨けば磨くほど磨いたものを輝かせるという「本物の砥石」をA君の手に持たせようとしても、A君は偽物の砥石を握りしめて、本物の砥石を持とうとさえしないようにも見えました。

それほどまでにA君の症状は悪化していると、私には思えたのです。

A君は極端なケースであると思うかも知れませんが、A君と同様の症状、すなわち「いくら努力しても数学ができるようにならない。簡単な問題は解けても入試問題はさっぱり解けない。」といった症状に悩んでいる受験生は多いのです。

そうした場合には、まずはこれまでの数学の勉強方法を見直して、学力がアップする正しい努力をしていたのかを点検してみる必要があります。

志望校に合格するためには、こうした症状を改善し入試問題が解ける数学力を身につけなければなりません。

入試問題が解ける数学力といっても志望する大学によってその目標とするレベルは様々ですが、「わからない問題でも自らの力で考える」といった姿勢を伴わない数学の勉強法では、問題の解法パターンを無闇に暗記していっても真に身に付く数学力には決してなりません。

(2)B君

東大工学部(理Ⅰ)志望。1浪生。

A君とはまったくの正反対といったタイプの生徒。

数学・物理が抜群にできる。自分の力で考えるのが好きで、センター試験よりもむしろ2次の記述試験を得意とする。

性格もA君とは正反対で、人からのアドバイスをそのまま何も考えずに受け入れるということは決してしない。そのアドバイスが自分にとって適切かどうかは必ず自分で判断して決める。

B君が最も苦手とするのは、センター英語、それも語彙力や文法力を試す穴埋め小問題です。

「センター英語の得点源はもっぱら長文読解で、やはりそれだけでは十分な得点とはならず高3の受験の時もセンター英語の穴埋め小問題で失敗」したとB君は自ら分析しています。

志望校合格にはセンター英語の得点をアップしなければいけないことはB君自身よく分かっているのです。

予備校の三者面談でのことです。

センター英語の穴埋め小問題への対策なら、それに対応した問題集をB君は既に持っているというので、「その1冊を繰り返し行って徹底的に頭にたたき込めばいいだろう」とアドバイスしました。

優秀なB君ならその問題集を消化するのはたやすいことに思えましたが、彼の表情はさえません。

「そうすればいいのは分っているけれど、多分できないと思う」と彼は言うのです。

「分かっているのにできないとはどういうことか」と私は詰め寄りましたが、B君は単調な問題を消化し暗記していくという作業に対して私の想像以上の嫌悪感と反発を感じていたのです。

そうした勉強をすることが、たとえ志望校合格に必要であると分かっていても、それが無意味に思われそれ故耐えがたい苦痛を感じるようなのです。

私と彼とのやりとりを傍で聞かれていた父親が苦笑しながら言われました。

「この子が英語を覚えるのを嫌がるのは年季が入っているんです。中1の1番最初のテスト、それはクラス誰もがほとんど満点を取るというあのテストです、その簡単なテストでもこの子1人だけ全然点が取れなかった。ちょっと努力して暗記してしまえば誰でも満点取れるのに、この子にはそれができなかった、しなかった」父親も、B君が今さらセンター英語の小問対策問題集をコツコツやるとは思っていないようです。

B君の暗記に対する嫌悪感と反発は相当なものです。

B君が言うには、「浪人してからセンター英語の小問対策問題集をやってはみたものの、その無意味さに耐えがたい苦痛を感じてしまって、ついつい数学や物理の記述問題を解くという楽しみに走ってしまう」らしいのです。

英語で暗記することがそこまで嫌いならとても英語の長文問題など解けないと思うのですが、B君が言うには、

「長文問題なら大丈夫、センター英語は長文で得点を稼いでいる。2次の英語もなんとかなる」とやけに自信満々なのです。

英語の暗記を苦手とする生徒は多いのですが、B君ほど英語の暗記に対する嫌悪感と反発を感じる生徒がいるとは驚きでした。B君の記憶力が他の生徒に比べて劣っているとは思えませんが、英語の暗記に対する嫌悪感と反発を彼は中1の初めに既にいかんなく発揮していたのです。

英語が苦手な生徒の多くは、長文問題、長文読解を苦手だと言います。それでは長文読解以外は大丈夫なのかと言えば、長文読解に必要な語彙力・文法力がやはり身に付いていません。

英語の語彙・文法の学習をおろそかにしてきたB君が長文問題、それも2次の長文読解にも自信満々なのは理解しがたいことでした。

後に分かったことですが、実はB君は密かに第1志望校を、センター試験や2次試験で英語の配点が少なく2次の数学・物理の配点が高い東工大へと変更していたのです。英語の配点の少ない東工大であれば、得意とする数学・物理の記述問題でなんとかカバーできると目論んでいたようです。既にセンター英語の小問対策問題集をやりぬく気持などは失せていたのです。

「2次の英語もなんとかなる」といった彼の自信ある言葉の意味は、2次試験の英語で確実に得点できるといった十分な英語力が身に付いているということの表明ではなくて、得意科目でカバーしきれないほどの悪い点は取らない自信はあるという、他の得意科目の得点に頼らざるを得ないなんとも不十分な英語力の表明だったのです。

英語を苦手とする浪人生の多くは中学生のときから英語につまづいています。つまり英語の苦手にもかなりの年季がはいっているのです。

こうした場合、浪人してから英語の実力をつけるには数学以上に時間がかかります。

中学の数学が苦手であっても高1から新たな気持ちで数学の勉強を始めればよいのです。中学の数学を勉強し直す必要はありません。

英語の場合には、高1から新たな気持ちで始めようとしても、中学の英語が身についていない場合には高校の英語についていけなくてますます英語が苦手になってしまうのです。

「中学の時から英語の実力が止まったままです」と打ち明ける浪人生は実に多いのです。

B君の場合も、中1のときから英語で学ぶべきことを学び、覚えるべきことを覚えておくべきでした。そうすれば彼が後々までセンター英語の勉強程度で苦労せずに済んだのです。B君にとって英語を覚えることが苦痛であったとしても、しかるべき学年の時にしかるべき学習をしておかなかったために英語の暗記に対する嫌悪感や反発がこれほどまでに大きくなってしまったのです。

彼の特異ともいえる「英語の暗記に対する嫌悪感や反発」は、彼の「自ら考えて解くことが何よりも好き」といった特性と密接に関係しているように思いますが、彼が中1のとき、嫌がる英語の暗記を強いたとしても「自ら考えて解くことが何よりも好き」という彼のすばらしい特性をつぶすことはないと私は断言します。そんなことでつぶれるほど人間の脳も人間の個性も軟ではないのです。そして英語の暗記を強いられることは、浪人してからよりも中1のときのほうが彼にとってはるかに苦痛や負担が少なかったことは間違いないのです。彼が早いうちにそうした苦労を乗り越えておけば、他の得意科目に頼る必要のない十分な英文読解力を必ず身に付けていたことも、間違いないと私は思うのです。

(3)C君

都立上位校志望。中3生。

数学・英語・理科ともによくできる。

学生の頃、東京の塾で数学講師をしていたときの話です。

C君を含めた数人の生徒達(中3生)と雑談をしていたときのことです。話題が漫画のことになったとき、C君が突然こう言い出したのです。

「先生、僕は漫画が読めないのです」

周りの生徒も私もC君が冗談で言っているのかと思い思わず笑ってしまったのですが、C君を見ると、真剣で深刻な表情をしています。C君は言葉を続けます。

「セリフが少ない漫画なら何とか読めるけど、セリフが多い漫画はまったく読めません。ドラマや映画を見てもよく分りません。」

ドラマや映画を見てみんなが笑ったり泣いたりしていても、C君にはそれがどうしてなのかよく分らないというのです。ドラマや映画のストーリについていけなくて何が表現されているのか理解できない、ということらしいのです。

セリフの多い漫画も同様です、セリフが多いと漫画のストーリについていけなくなるというのです。

「周りのみんなが楽しんでいる漫画や映画を僕だけは楽しむことができない」という状態でしたが、高校受験を控えたC君としてはそれ以上に深刻な悩みがあったのです。

C君は数学・英語・理科ともによくできますが、国語だけはさっぱりできないのです。いくら勉強しても国語の得点だけが全然上がらないというのがC君の最大の悩みでした。

真面目なC君は塾での国語の授業を他の教科以上に真剣に取り組んでいるのですが、一向にできるようにならないのです。

その場にいた他の生徒の中にも国語の苦手な生徒はいましたが、C君の場合は苦手な症状が突出しています。文章がまったく読めない、何を書いているのかさっぱり分らないというのです。問題文を数行読むこともできない、読んでも全然理解できないというのです。授業で説明を受けても、問題文がどうしてそのように理解できるのかさっぱり分らないということです。

私はC君に、これまでどんな本を読んだことがあるのか聞いてみました。

「1冊の本も読んだことがありません」と、はにかみながらも苦しそうな言葉が返ってきました。

C君の主要な国語の得点源は、漢字の読み書きと古文・漢文問題です。現代文の読解問題はまったく期待できず運任せの状態です。

古文・漢文は中学生になってから意識的に学習するので、現代文の問題に比べて勉強しただけ得点も取れるようになるようです。現代文の内容は、小説、評論文いずれも内容がまったく理解できないので、ひたすら漢字の読み書きで得点を稼ぐという作戦です。

当時の私は漫画や映画が理解できない生徒がいるのに驚いたのですが、他の教科がよくできるのに国語(現代文)のみ突出してできないという浪人生が少なからずいることを、その後知ることになります。

こうした生徒に話を聞いてみて分ったのですが、どの生徒にも共通するのは、「1冊の本も読んだことがない」ということでした。

(4)D君

筑波大学工学部志望。1浪生。

予備校の三者面談でのことです。

D君にも国語の成績が上がらないという悩みがありました。

D君もC君同様、数学・英語・理科ともによくできますが、国語だけはさっぱりできません。

漫画や映画が理解できないというほど重症ではないのですが、センター国語に関しては、C君の高校入試の国語の場合とほぼ同じ症状です。

D君にも読書体験を聞いてみましたが、1冊の本もこれまでに読んだことがないということです。

D君が中3の時、父親はD君の国語の偏差値のあまりの悪さに驚いて、毎日のようにマンツーマンで国語の指導をしたそうです。しかしD君の国語の成績は、父親の言を借りて言えば「びた一文も上がらなかった」ということです。

D君の父親からこの話を聞いたとき、私は中3であったC君のことを思い出し、読書経験がまったくない生徒に中3から国語の勉強をさせても手遅れなのだろうかと思ったものでした。

「若い時に読書の楽しみを経験していなければ、大人になってから読書を楽しむことはできない」とも言われます。我々は生まれた時から日本語に囲まれて育ちます。文法や語彙を特別勉強しなくても日本語が不自由なく話せるようになります。国語ができない生徒たちも日本語の会話は何不自由できるのです。漫画さえ読めないというC君でも日本語の会話には何の問題もないのです。それは生まれた時から日本語の会話環境の中で育ったからでしょう。

 乳幼児の時に周りから声をかけられずに育った子供は、話し始める時期が遅れるといいます。日本語の会話環境の中で育たなかった子供は、話すという言語機能の発達が遅れてしまうのです。

1冊の読書体験もないという生徒たちは、貧相な活字環境の中で育ったといえるでしょう。こうした子供たちは読むという言語機能の発達が遅れてしまうのかも知れません。こうした遅れを取り戻すには、C君、D君のことを考えると、中3ではすでに遅いのかも知れませんし、学習方法によってはまだまだ間に合うのかも知れませんが、読書体験は後々の国語力(特に現代文)に大きな影響を持つことは間違いなさそうです。国語(特に現代文)の学力が伸びるかどうかは、小さいころからの母国語体験が大きな要因になっているように思われるのです。

受験勉強に追われて忙しくなる前に、皆さんが豊かな読書体験をもつことをおすすめします。豊かな読書体験とはなんでしょうか?

ただ単にたくさんの本を読むことではないでしょう。受験に役立ちそうだからと思って、入試に出そうな大量の本を読んでみたところで、それは貧相な読書体験に終わってしまうかもしれません。

時の経つのも忘れ寝食も忘れて読み耽った本がある人は、そうした読書は豊かな読書体験といえるでしょう。

その本が小説であれば、あなたはきっと登場人物の心情をよく理解できたでしょう。その本が評論文であれば、あなたはきっと著者の主張に耳を傾けたでしょう。

入試の現代文の種類は、小説と評論文に大別できます。

受験生の多くは、小説よりも評論文を苦手とします。それは何故でしょうか?

たとえ1冊の小説すら読まなくても、年齢を重ね社会経験を積み大人になっていく程に、小説の読解力は増していくのです。

「事実は小説より奇なり」といいます。小説の読解力があるということは登場人物の心情がよく理解できるということですが、人は年齢を重ね社会経験を積んで成長していくことで、小説以上に奇である「社会という小説」を読んでいるともいえます。ドラマや映画を見たりあるいは漫画を読むことも、小説を読むこと同様に登場人物の心情理解、人間理解に役立っているのです。

一人の青年がこう呟きます、「ああ、今日の夕日はなんて美しいのだろう」。このときの、この青年の心情はいかなるものであったか?

この台詞だけからは誰も正解を答えることなどできません。人は本当の心情とはまったく反対の言葉を発することがよくあるからです。

青年は、彼の発する言葉から推察して、「普段にも増して格別大きく美しく映える夕日をしみじみと味わってそう言った、青年は自然の美というものを再発見したようだ」というのが正解かも知れませんが、「その夕日は普段の夕日と変わりなかったが、その日青年は長年の苦しみから解放されたので、その喜びが夕日をいつも以上に美しく見せた」のかも知れません。あるいは「その夕日は普段の夕日と変わりなかったが、その日青年の身に起こった悲しい出来事が夕日をいっそう美しく輝かせた」のかも知れないのです。

この台詞が、ドラマや小説の一場面であったならどうでしょう。その場面に至るまでのその青年の性格や心情が理解できているはずです。青年が自然美に感動したのか、あるいは喜びがあるいは悲しみがその日の夕日をいっそう美しく輝かせたのかは、理解できるはずです。

大きくゆったりと沈みゆく夕日が悲しみに沈む青年の心を癒し、青年はそのとき、その夕日が明日には朝日として再び新たな光を放ち始めるのを思い、明日から再び新たな希望を胸に生きていこうという力が体中に充満していくのを静かに感じていたのかも知れません。先ほどまで悲嘆の底に沈んでいた自分とは思えないほどの力強さを体内に感じ、そのことに戸惑いながらも、みずからの生命が再生されようとしているのを確かに感じ取っていたのかも知れません。青年の台詞には、生命の再生の喜びと新たに歩き始めようという決意が、あるいはそうした力を再び自分にもたらしてくれた大自然への感謝、大自然の中で生かされている生命というものの不思議な力への感動が、込められていたやも知れません。

1冊の小説さえ読んだことがなくても、人生の様々な経験を積んできた大人には、そうした場合の心情がよく理解できるのです。この場面での青年の心情、登場人物の心情が理解できることが、小説の読解力といえます。

小説に比べ評論文はどうでしょうか。評論文の読解力があるということは、著者の言いたいことが何なのかを理解できるということです。我々は社会生活を送るうえで、他者のいうことを正しく理解し、また自分の主張を他者に伝えなくてはなりません。

そういう次第であれば、「たとえ1冊の評論文すら読まなくても、年齢を重ね社会経験を積み大人になっていく程に、評論文の読解力は増していく」と小説同様に言えそうにも思えますが、どうでしょうか?

我々の社会生活における、日常会話での表現は評論文に比べてより簡素で直接的です。社会生活においては、何よりも他者に自分の伝えたいことを間違いなく正しく伝える必要があるからです。

評論文においては、著者の書くことは、あるいは他事に触れ、あるいは表現に比喩を交え、あるいは他者の云いを引用し、あるいは時代や空間を超えて例示を述べ、といった様子で、我々の日常会話での表現とは趣を異にするところが多いのです。

しかし、だからといって、著者は何のために評論文を書いているのでしょうか?

それは自分の云いたいことを読者に伝えたいがためにであることは間違いありません。読者に自分の主張を正しく伝えたいがために書いているに違いないのです。読者から誤解されることを望んでいるわけでは決してないのです。

「それではもっと分りやすく、より直接的に簡単に書けばよいではないか」と思われるかも知れませんが、評論文の著者が自分の主張をより正確に読者に伝えるためには、日常会話とは異なる表現を必要とするのです。難しく感じられたり理解しがたい表現が評論文の中にあったとしても、それは評論文の著者にしてみれば、自分の云いたいことを読者に伝えるためには必要であった表現なのです。

例えばある著者は、悲しみが故にいっそう美しく輝く夕日を感じる青年の様子を見て、「人間の悲しみは、美をいっそう深くする。悲しみが深ければ深いほど、すべてはいっそう美しく見えるのだ。」といった発見をします。この著者は、自分自身の実体験、人からの話、様々な文献で読んだこと、それら様々のことを考えあわせても自分の発見はますます正しいと感じます。

「このことを他の人にも伝えたい、多くの人は喜びがいっそう美を輝かせると思っているのだが、それは間違いで、そして多くの人がそのように間違った理由も自分には分かった。みんながまだ気づいていないこのことを多くの人に伝えよう、そのためには『悲しみは美を深くする』と言っただけではとても分かってはもらえない。それには主張を裏付ける様々な事実や例証を書かなければならない、あの昔話もあの外国の童話も私の主張を支える例として役立つかもしれない。この部分は直接的な表現よりも比喩を用いた方が読者にはよく伝わるかもしれない。悲しみばかりではなく喜びや怒りとの関係においても美というものを考察しなくては、私の主張はなかなか分かってもらえないかもしれない。それでも私はこの発見を多くの人に理解してもらいたいのだ。」

1つの評論文において、著者の述べることがあるいは多岐に亘っているかも知れませんが、著者は自らの主張を読者に伝えたくて精一杯の表現をしているのです。著者は多くのことについて語るかも知れませんが、1つの評論文において著者が読者に伝えたいことは、畢竟たった1つのことだと言えます。1人の著者はその生涯にわたって多くの評論文を書くかも知れませんが、それら多くの評論文は著者が云いたいたった1つのことを伝えるために書かれたものである場合も多いのです。

評論文というものがそういうものであったなら、我々は評論文を読む際には、「著者が読者に伝えたいたった1つのこと」にまず耳を澄まさなければなりません。著者が伝えたいたった1つのことが分かったならば、一見難しく思えた表現も、著者が伝えたいたった1つの単純な主張をより正確に読者に伝えんがための精一杯の工夫だと気づくでしょう。

評論文の読解力をつけるには、評論文を読まずに済ますわけにはいきませんが、それは「著者が云いたいたった1つのこと」に耳を傾けることに他ならないのです。

だからといって、著者の主張に同意する必要はありません。著者とはまったく反対の意見をもつ場合だってあるでしょうし、賛成か反対かはどちらとも言えない場合だってあるでしょう。評論文を読んでどんな感想を抱こうとまったくの自由ですが、感想を抱くにもまずは相手の言うことに耳を傾けなくてはなりません。著者の主張に途中で反発を感じても、必ず最後まで読んでみてください。途中で反発を感じたとしたら、それは既に評論文の読解力があるといえますが、読み進めるうちにあなたは著者の意見に同意するかも知れませんし、もしかすると著者は、評論文の最後では、あなたが反発を感じたこととは違う結論を述べているかも知れません。

いずれにせよ、評論文の著者は「たった1つのこと」が云いたいがために、これでもかこれでもかと、手を変え品を変え一生懸命に読者に伝えようとして書いているのです。まったく健気なことです。著者が必死に伝えようとして書いてある評論文が、余りにも難解で苦手に感じるとしたら、あなた自身が耳を塞いでしまっているから、という場合があるやも知れません。

生徒の学力の特性は実に様々です。

皆さんは自らの学力の特性、すなわち自ら得意とするところや苦手なものについて、既にご存じのことと思います。

私は実際に出会ったA、B、C、D君の紹介を通して、生徒の学力の特性を垣間見てきましたが、学力の特性について最もよく分かっているのは他ならぬその生徒自身です。

しかし、自らの苦手とするところを克服するのにどう対処してよいか分からず悩んでいるのではないでしょう

か。あるいはまた、自らの得意とするところをさらに伸ばすにはどうすればよいか分からないでいるのかも知れません。何をどう勉強すればよいのか分からず途方に暮れている科目はないでしょうか。

学力アップや志望校合格といった各人の目標を達成するためには、何が必要で何を正さなければならないか、どの学力をどの程度までどうやって伸ばさなければならないかを的確に知ることが大事です。

まずは皆さんが自らの学力特性を自己分析してみましょう。

努力して勉強した分だけ学力が身に付いていると自ら実感できるならば、その科目に関しては勉強方法が正しいと言えるでしょう。テストの結果として目に見える形で成績が上がっていなくても、学力の向上が実感できているならば、「あきらめずに努力を続けていればやがてはきっと結果となって現れる日が来るから」といった励ましの言葉も不要でしょう、それは生徒本人がそのことを一番わかっているからです。

いくら懸命に努力しても思うように成績が上がらない、学力の向上が実感できない、といった科目があるならば、できるだけ早急に対応を考える必要があります。上記で紹介したケースのように科目によっても異なりますが、どの科目の場合でも早い学年で対処する方がはるかに修正が容易でしかも効果的なのです。

鉄は熱いうちに打たねばなりません、冷め始めた鉄を打つにはより大きな力が必要でしょうし、その力をもってしてももはや名刀は叶わないでしょう。冷めきった鉄では、名刀はおろか到底並の刀にも鍛えることができません。

しかしまた、人間は単なる鉄塊ではありません。みずから奮い立ち再び熱く燃えることのできる鉄塊であります。冷めていれば冷めているほど、いっそう多くの苦痛と努力を必要としますが、それはまた再び名刀となりうべき熱き鉄塊に変じるやも知れぬ鉄塊でもあります。この熱き鉄塊を名刀に変じるには、熱き鉄塊である皆さん自身が自ら槌を握り、自らを打って鍛えねばなりません。

槌を打つ音が「トンカチ、トンカチ」と心地よく響いていれば、日々槌を打つ皆さんの努力が熱き鉄塊をして名刀へと変じさせる実りあるものであることの証しでありましょう。槌を打つ音が異音を発していれば、日々槌を打つ皆さんの努力は報われぬものとなるでしょう。

槌を打つ皆さん自身がこの異音に気づき槌の打つ手を変えることができればよいのですが、初めて槌を打つ身であってみれば異音が異音と聞こえなくても仕方ないことかも知れません。しかし、異音を発する槌を打つ手はすぐにでも止めねばならないのです、熱き鉄塊が冷めてしまわぬうちに、熱き鉄塊が異形となってしまわぬうちに。

また槌の音が異音かどうか分からぬ身であれば、槌を打つ日々の労苦に皆さんは疲れてしまうかも知れません。

槌の音の心地よい響きがいかなるものか知らぬ身であれば、槌を打つ労苦の日々に不安を募らせ、苦悩を深くする日々の中でこう自問するに違いありません。

「これまで以上の努力をこのまま続けてさえいれば、この鉄塊が名刀となる日は本当にやってくるのだろうか?」

そんなとき皆さんは熱き鉄塊を日々の労苦なく名刀に変える「魔法の槌」を求めるかもしれません。もしそのような「魔法の槌」があったなら、皆さんはやがて冷めた鉄塊をも忽ちにして名刀へと変えてしまうさらに強力な「魔法の槌」を探し求めるに違いありません。

そのような「魔法の槌」は果たしてあるのでしょうか?

努力をすることなしに手っ取り早く学問を身に付ける方法があればと願うのは現代の受験生ばかりではありません。

古代エジプトの王、プトレマイオス一世は「苦労して学ぶことなく幾何学を身に付ける方法はないのか」と、王に幾何学を講義していた数学者ユークリッドに尋ねたのでした。ユークリッドは言下にいいました。「たとえ王といえども、そのような安楽な幾何学習得の方法はありません、学問に王道なし」と。

私もユークリッドに倣って皆さんに告げねばなりません。「たとえ熱き鉄塊であっても、日々の努力なく名刀に変える『魔法の槌』などなく、冷めた鉄塊であってみれば、たとえそのような『魔法の槌』をもってしても名刀はおろか並の刀さえ鍛えることはできない」と。

私は皆さんに、ありもしない「魔法の槌」を差し上げることはできませんが、日々槌を打つ皆さんの努力が熱き鉄塊をして名刀へと変じさせる実りあるものになるように導きたいと思うのです。槌を打つ音が異音を発していれば、その槌が「トンカチ、トンカチ」と心地よく響くように槌の打ち方を指導いたします。また皆さんが手にしている槌が、打っても打っても熱き鉄塊を鍛えることのできない「偽物の槌」でないかを点検し、打てば打つほどに熱き鉄塊を名刀に鍛えることができる「本物の槌」を皆さんが手にするよう指導します。

しかしながら、日々槌を打つ皆さん自身の努力がなければ、そして何よりも鉄塊が熱く燃えているのでなければ、いかなる「本物の槌」を手にしたとしても、鉄塊を名刀に鍛えることは叶わない、と言っておかねばなりません。

自ら燃え上がる熱き鉄塊に出会えることを楽しみにしております。

そして、この熱き鉄塊にとって、自ら槌を手にして自ら槌を打つことが、もはや労苦ではなくてむしろ大きな喜びとなることを願うものであります。

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