福井塾

合格に至る確かな歩みへと導く

(4)D君

筑波大学工学部志望。1浪生。
予備校の三者面談でのことです。
D君にも国語の成績が上がらないという悩みがありました。
D君もC君同様、数学・英語・理科ともによくできますが、国語だけはさっぱりできません。
漫画や映画が理解できないというほど重症ではないのですが、センター国語に関しては、C君の高校入試の国語の場合とほぼ同じ症状です。
D君にも読書体験を聞いてみましたが、1冊の本もこれまでに読んだことがないということです。
D君が中3の時、父親はD君の国語の偏差値のあまりの悪さに驚いて、毎日のようにマンツーマンで国語の指導をしたそうです。しかしD君の国語の成績は、父親の言を借りて言えば「びた一文も上がらなかった」ということです。
D君の父親からこの話を聞いたとき、私は中3であったC君のことを思い出し、読書経験がまったくない生徒に中3から国語の勉強をさせても手遅れなのだろうかと思ったものでした。
「若い時に読書の楽しみを経験していなければ、大人になってから読書を楽しむことはできない」とも言われます。我々は生まれた時から日本語に囲まれて育ちます。文法や語彙を特別勉強しなくても日本語が不自由なく話せるようになります。国語ができない生徒たちも日本語の会話は何不自由できるのです。漫画さえ読めないというC君でも日本語の会話には何の問題もないのです。それは生まれた時から日本語の会話環境の中で育ったからでしょう。
 乳幼児の時に周りから声をかけられずに育った子供は、話し始める時期が遅れるといいます。日本語の会話環境の中で育たなかった子供は、話すという言語機能の発達が遅れてしまうのです。
1冊の読書体験もないという生徒たちは、貧相な活字環境の中で育ったといえるでしょう。こうした子供たちは読むという言語機能の発達が遅れてしまうのかも知れません。こうした遅れを取り戻すには、C君、D君のことを考えると、中3ではすでに遅いのかも知れませんし、学習方法によってはまだまだ間に合うのかも知れませんが、読書体験は後々の国語力(特に現代文)に大きな影響を持つことは間違いなさそうです。国語(特に現代文)の学力が伸びるかどうかは、小さいころからの母国語体験が大きな要因になっているように思われるのです。
受験勉強に追われて忙しくなる前に、皆さんが豊かな読書体験をもつことをおすすめします。豊かな読書体験とはなんでしょうか?
ただ単にたくさんの本を読むことではないでしょう。受験に役立ちそうだからと思って、入試に出そうな大量の本を読んでみたところで、それは貧相な読書体験に終わってしまうかもしれません。
時の経つのも忘れ寝食も忘れて読み耽った本がある人は、そうした読書は豊かな読書体験といえるでしょう。
その本が小説であれば、あなたはきっと登場人物の心情をよく理解できたでしょう。その本が評論文であれば、あなたはきっと著者の主張に耳を傾けたでしょう。
入試の現代文の種類は、小説と評論文に大別できます。
受験生の多くは、小説よりも評論文を苦手とします。それは何故でしょうか?
たとえ1冊の小説すら読まなくても、年齢を重ね社会経験を積み大人になっていく程に、小説の読解力は増していくのです。
「事実は小説より奇なり」といいます。小説の読解力があるということは登場人物の心情がよく理解できるということですが、人は年齢を重ね社会経験を積んで成長していくことで、小説以上に奇である「社会という小説」を読んでいるともいえます。ドラマや映画を見たりあるいは漫画を読むことも、小説を読むこと同様に登場人物の心情理解、人間理解に役立っているのです。
一人の青年がこう呟きます、「ああ、今日の夕日はなんて美しいのだろう」。このときの、この青年の心情はいかなるものであったか?
この台詞だけからは誰も正解を答えることなどできません。人は本当の心情とはまったく反対の言葉を発することがよくあるからです。
青年は、彼の発する言葉から推察して、「普段にも増して格別大きく美しく映える夕日をしみじみと味わってそう言った、青年は自然の美というものを再発見したようだ」というのが正解かも知れませんが、「その夕日は普段の夕日と変わりなかったが、その日青年は長年の苦しみから解放されたので、その喜びが夕日をいつも以上に美しく見せた」のかも知れません。あるいは「その夕日は普段の夕日と変わりなかったが、その日青年の身に起こった悲しい出来事が夕日をいっそう美しく輝かせた」のかも知れないのです。
この台詞が、ドラマや小説の一場面であったならどうでしょう。その場面に至るまでのその青年の性格や心情が理解できているはずです。青年が自然美に感動したのか、あるいは喜びがあるいは悲しみがその日の夕日をいっそう美しく輝かせたのかは、理解できるはずです。
大きくゆったりと沈みゆく夕日が悲しみに沈む青年の心を癒し、青年はそのとき、その夕日が明日には朝日として再び新たな光を放ち始めるのを思い、明日から再び新たな希望を胸に生きていこうという力が体中に充満していくのを静かに感じていたのかも知れません。先ほどまで悲嘆の底に沈んでいた自分とは思えないほどの力強さを体内に感じ、そのことに戸惑いながらも、みずからの生命が再生されようとしているのを確かに感じ取っていたのかも知れません。青年の台詞には、生命の再生の喜びと新たに歩き始めようという決意が、あるいはそうした力を再び自分にもたらしてくれた大自然への感謝、大自然の中で生かされている生命というものの不思議な力への感動が、込められていたやも知れません。
1冊の小説さえ読んだことがなくても、人生の様々な経験を積んできた大人には、そうした場合の心情がよく理解できるのです。この場面での青年の心情、登場人物の心情が理解できることが、小説の読解力といえます。
小説に比べ評論文はどうでしょうか。評論文の読解力があるということは、著者の言いたいことが何なのかを理解できるということです。我々は社会生活を送るうえで、他者のいうことを正しく理解し、また自分の主張を他者に伝えなくてはなりません。
そういう次第であれば、「たとえ1冊の評論文すら読まなくても、年齢を重ね社会経験を積み大人になっていく程に、評論文の読解力は増していく」と小説同様に言えそうにも思えますが、どうでしょうか?
我々の社会生活における、日常会話での表現は評論文に比べてより簡素で直接的です。社会生活においては、何よりも他者に自分の伝えたいことを間違いなく正しく伝える必要があるからです。
評論文においては、著者の書くことは、あるいは他事に触れ、あるいは表現に比喩を交え、あるいは他者の云いを引用し、あるいは時代や空間を超えて例示を述べ、といった様子で、我々の日常会話での表現とは趣を異にするところが多いのです。
しかし、だからといって、著者は何のために評論文を書いているのでしょうか?
それは自分の云いたいことを読者に伝えたいがためにであることは間違いありません。読者に自分の主張を正しく伝えたいがために書いているに違いないのです。読者から誤解されることを望んでいるわけでは決してないのです。
「それではもっと分りやすく、より直接的に簡単に書けばよいではないか」と思われるかも知れませんが、評論文の著者が自分の主張をより正確に読者に伝えるためには、日常会話とは異なる表現を必要とするのです。難しく感じられたり理解しがたい表現が評論文の中にあったとしても、それは評論文の著者にしてみれば、自分の云いたいことを読者に伝えるためには必要であった表現なのです。
例えばある著者は、悲しみが故にいっそう美しく輝く夕日を感じる青年の様子を見て、「人間の悲しみは、美をいっそう深くする。悲しみが深ければ深いほど、すべてはいっそう美しく見えるのだ。」といった発見をします。この著者は、自分自身の実体験、人からの話、様々な文献で読んだこと、それら様々のことを考えあわせても自分の発見はますます正しいと感じます。
「このことを他の人にも伝えたい、多くの人は喜びがいっそう美を輝かせると思っているのだが、それは間違いで、そして多くの人がそのように間違った理由も自分には分かった。みんながまだ気づいていないこのことを多くの人に伝えよう、そのためには『悲しみは美を深くする』と言っただけではとても分かってはもらえない。それには主張を裏付ける様々な事実や例証を書かなければならない、あの昔話もあの外国の童話も私の主張を支える例として役立つかもしれない。この部分は直接的な表現よりも比喩を用いた方が読者にはよく伝わるかもしれない。悲しみばかりではなく喜びや怒りとの関係においても美というものを考察しなくては、私の主張はなかなか分かってもらえないかもしれない。それでも私はこの発見を多くの人に理解してもらいたいのだ。」
1つの評論文において、著者の述べることがあるいは多岐に亘っているかも知れませんが、著者は自らの主張を読者に伝えたくて精一杯の表現をしているのです。著者は多くのことについて語るかも知れませんが、1つの評論文において著者が読者に伝えたいことは、畢竟たった1つのことだと言えます。1人の著者はその生涯にわたって多くの評論文を書くかも知れませんが、それら多くの評論文は著者が云いたいたった1つのことを伝えるために書かれたものである場合も多いのです。
評論文というものがそういうものであったなら、我々は評論文を読む際には、「著者が読者に伝えたいたった1つのこと」にまず耳を澄まさなければなりません。著者が伝えたいたった1つのことが分かったならば、一見難しく思えた表現も、著者が伝えたいたった1つの単純な主張をより正確に読者に伝えんがための精一杯の工夫だと気づくでしょう。
評論文の読解力をつけるには、評論文を読まずに済ますわけにはいきませんが、それは「著者が云いたいたった1つのこと」に耳を傾けることに他ならないのです。
だからといって、著者の主張に同意する必要はありません。著者とはまったく反対の意見をもつ場合だってあるでしょうし、賛成か反対かはどちらとも言えない場合だってあるでしょう。評論文を読んでどんな感想を抱こうとまったくの自由ですが、感想を抱くにもまずは相手の言うことに耳を傾けなくてはなりません。著者の主張に途中で反発を感じても、必ず最後まで読んでみてください。途中で反発を感じたとしたら、それは既に評論文の読解力があるといえますが、読み進めるうちにあなたは著者の意見に同意するかも知れませんし、もしかすると著者は、評論文の最後では、あなたが反発を感じたこととは違う結論を述べているかも知れません。
いずれにせよ、評論文の著者は「たった1つのこと」が云いたいがために、これでもかこれでもかと、手を変え品を変え一生懸命に読者に伝えようとして書いているのです。まったく健気なことです。著者が必死に伝えようとして書いてある評論文が、余りにも難解で苦手に感じるとしたら、あなた自身が耳を塞いでしまっているから、という場合があるやも知れません。